絵や写真のなかに、自分とそっくりな姿を発見し、とても驚いたことが2度ある。 最初は、ある日本人写真家が撮ったモノクロームで、インドの大都市ボンベイの街頭に蹲っている、ひとりの男の顔だった。ここに、なぜ自分が? ぼくはインドには行ったことがないはずだ。正常な思考と判断が、一瞬ふっとんでしまった。撮影年月日を確かめると、198X年とある。大丈夫だ。ぼくではない。この頃は、朝から晩まで働いていて、インドを放浪することなど絶体に考えられない。しかし、無理に落ち着こうとする時に限って、誰かが怖しい演出をしたかのように空気が一変する。写真集をひろげていた喫茶店の(邪宗門という名であったが)、時計という時計が、ぼおーんじーん、じーんぼーんと一斉に響きわたったのだ。ぼくの頭は、またもや瞬間パニックになった。確かに、この世には不可解なこと、悪夢としか思えないようなことが存在する。何が現実で、何が夢なのか。その閾は誰にもはっきり見えない。だから、もしかしたらぼくは忘れているのかも知れない。日本でぼくが眠っている間に、もうひとりのぼくがインドの街を歩いていたということを......... 。 しかし、時間が経ち、血液の流れが正常になってくるにしたがって、意識の層もはっきりしてくる。 2度目はつい最近である。こんどのは、最初の体験と違い、とてもかわいらしいぼくの姿だ。加藤JUNさんの作品で、Seedmanという絵だ。 おそらく、生まれて間もない頃の記憶だと思うのだが、ぼくは揺籃(郷里ではEntukoと呼ぶ)のなかにいて、遠くの、眩い光を限る扉を見つめていた。その光の入口から、ぬーと巨大が影が近づいてきて、ぼくの目の前で踊りはじめた。何物か分からない。ただ、揺籃に守られ、闇と光の間にいた自分の記憶だけが、はっきり脳裏に焼き付いている。 加藤さんの生み出したSeedmanが、あの揺籃のなかにいた生命と同じものだと思うと、そうか、生きているとちゃんと実るんだな、と嬉しくなってしまう。 加藤JUNさんの頁の紹介です。 ( www.asahi-net.or.jp/~AD2J-KTU/ ) 《水滴の様な形が、なぜか好き》と彼は言う。Dream seedという作品のあとがきには、《人の頭の中に棲み、時々種を蒔き・・》とある。彼の作品を見ていると、ぼくらの中にあらかじめ蒔かれていた種子が、彼の夢の中で育てられ、変にここちよく、妙にたのしい形になって贈られてきたように思える。 「透命草」、「Sleeping for help」、「Karin」など、息をすることを忘れて見入ってしまう作品ばかりだ。 また、紙粘土とアクリルの作品も絶品。 映画好きの人には、独善的映画評もぜひお薦めしたい。 |