新・荻窪便り No.9



 がらくたばかりのクソ頭。散らかしほうだいの、能なし、とまで言いたくなる。一切れのメモ用紙に日付を入れなかったことが、こんなに悩む要因になるとは。
 方南町、芦花公園、西大久保、中野新橋、阿佐ヶ谷、東高円寺、高円寺南、本八幡、新井薬師、西船橋、そして荻窪。じっくりと思い返してみると、どうも高円寺南あたりから時間の記憶が狂いはじめているようだ。天沼教会の裏手に住んだのが、1978年。それから、取り壊されるまでの2年間いたわけだ。教会通りを歩き、東西線に乗り、しばらくは大手町まで通った。年金手帳を見ると、昭和五十二年十一月とある。この時は、まだ西船橋だ。満員の東西線から江戸川の川面を眺めていたのだから。とすると、翌昭和五十三年に荻窪に越して来たということになる。何月だったろうか。春か、夏か?
 次郎柿はひと秋、枇杷はふた夏食べた。庭に大きな木があって、好きなだけ食べられた。水がうまかった。地下水をポンプで汲み上げていた。よく牛尾のスープを煮た。
 そんなことはどうでもよい。このメモ用紙が、昭和五十三年なのか五十四年なのか、朝刊なのか夕刊なのか、いつの報道記事なのか分からないのだ。唯一の手がかりは、第一面だという記憶。これを頼りに図書館で調べるしかあるまい。

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 第二の手がかり。大手町の会社を辞めてから、一年近く求職を続けたはずである。とすれば、新聞は朝日。やっと決まった次の就職は確か、二十九歳の十二月。つまり、1979年。この年をまずあたってみよう、と杉並中央図書館に出かけた。

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 壁一面の縮刷版。文庫本を読むのが辛くなってきている眼には、たまらない。

 イラン地震で2万5千人死亡。「オリーブの林を抜けて」の舞台がここにあった。

 「ピロスマニ」の紹介記事。ぼくがもっとも感銘を受けた作品のひとつだ。
 「俺が何を求めた?俺は何も変わらん。今まで通りやる」。ピロスマニの言葉だ。

 おいおい、疲れるんだから、さっさと調べろよ!

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 床にべったり座り込んで5冊ほど見た。頭の中で風の音がする。きょうはもう止めよう。
 何を調べようとしているのかって? それは、探し当てた時に申し上げます。


 「オリーブの林を抜けて」は、アッバス・キアロスタミ監督の自主映画作品。 また、「ピロスマニ」はグルジャ映画で、監督はシェンゲラーヤ。



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