1、剣道はまさに生涯錬磨のスポ−ツである。

 
剣道は格闘技ながら直接体をふれあって闘う柔道・相撲・空手・ボクシング等と異なり、竹刀を媒介にして行う競技です。そのため、体力や筋力は竹刀を早く振るのには役に立ちますが、他の格闘技みたいに決定的な優位性にはなりえません。

つまり、剣道競技は体力よりも技がより多く要求される技能競技なのです。ですから、私みたいな還暦を迎えた老人でも、若い中学生や高校生を相手に稽古をすることが可能になりますし、逆に70を過ぎたご老体の高段者に対して、手も足も出ないことはごく当然の現実です。

とにかく、体が動く内は常に現役を続けることが出来ます。そんな意味で、私は剣道を続けてきて本当に良かったと思っています。


2、指導者の最大の任務は基礎基本を身につけさせることである。

 剣道は簡単に勝負が決する関係で、ともすればすぐ勝つ剣道を教えたくなります。そして、生徒も親もそれを大きく望みます。

でも、それをやってしまえば、その人の剣道はそこで確実に止まります。正しい構え、正しい打ちを徹底して指導し、時間をかけて反復練習を積み重ねて体にたたき込んでやることです。

 そして、私が考えたレベルまで「打ち込み足」が定着できないうちは絶対に次の段階である「地稽古」に進ませないこと、これが私が長年頑固に守ってきた指導方法です。


3、指導者の最大の楽しみは生徒が化けることである。

 
基本が定着した頃を見計らい、柔道で言う「乱取り」剣道では「地稽古」といいますが、いわゆる相互の叩き合いを通じて実践的剣道を身につける応用段階に入ります。

 私が指導する場合は、叩きまくっていますが・・・。生徒は始めのうちはロボットが動くように実にぎこちない動きをし、私にとって格好の打ち込み台になります。しかし、子どもは考えられない速度で上達を続け、一方的に私に叩かれていた生徒が、突然、予期もしない動きで私を打ち込むようになります。

 これを私は「化けた」と言っています。この様子は幼虫の青虫が一気に成虫の蝶に変身した以上の感動を与えてくれます。いったん化けてしまえば、その生徒は私のライバルになり、格好の稽古相手へと成長していきます。そして、各自の気力と能力でどんどん伸びていくことになります。才能に恵まれた生徒は全県のトップレベルに登りつめることも可能ですし、私を追い越すのは時間の問題になります。


4、指導者に対する恩返しはうれしいものである。

 
私は昭和43年からほぼ30年にわたって剣道を指導してきました。高校に入ってやめたり、社会人になって中断したりで、なかなか私を越える剣道家が表れませんでした。

 しかし、脩道館沿革史にある昭和51年度卒業生でまだ30代ながら教士七段 まで到達した森内厚志氏にはすっかり水をあけられてしまいました。

 小学生時代は専門家の初代館長から徹底して基本をたたき込まれ、中学校時代は私から厳しい地稽古を中心に鍛えられました。その甲斐があって中学校時代は県個人戦で3位入賞するなど全県レベルの力を得た彼は、中京大学武道学科で剣道専門家としての修業を積み、体育教師として鹿角に戻ってきました。

 卒業したての頃は私でも何とか互角稽古ができたものの、その後の稽古で全国教職員大会で準優勝をするほどの実力をつけた彼には、あっという間に追い越され、更に大きく水をあけられてしまいました。

 その後は稽古をする度に「恩返し」の名のもとにボコボコと滅多打ちにあい、少しばかりでなく自尊心は傷つくものの、心の中は本当にうれしく思っています。その他に、自営業をしている彼の兄の錬士六段 森内秀幸氏(脩道館出身)、高校教員で虎視眈々と七段を狙っている六段 久慈隆正氏(八幡平中出身)等、恩返しレベルの剣道家が表れ本当に喜んでおります。


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 我が家「熊谷家」では、父親が幼少の頃から花輪小枝指の児玉道場に通い剣の道をみがいたと聞いております。その父親の兄が昭和の剣聖「高野佐三郎先生」の道場「修道学院」で長年に渡り師範代を務め、その後、宮城県の小牛田農林高校を日本一に育て上げる等、全国的に名が知れている乳井義博先生です。

 ところで、我が家の剣道の推移を紹介しますと、父 故熊谷良勝 七段 → 私 熊谷良政七段 → 長男二段・長女初段とだんだんと尻つぼみになってしまいました。でも、子どもはどう思っているか分かりませんが、親として剣道を通じて大変に楽しい思い出を残してもらい本当に良かったと思っています。

 私は、一般の人に比べ運動神経が抜群に劣り、特に走力は小学校の頃からビリの連続ながらも、それにへこたれることなく剣道とつきあって参りました。日頃剣道とのつきあいの中から次のような思いを述べたいと思います。

剣 道 に 思 う