小学校時代に少し剣道に接したものの、中学校・高校と剣道経験がない私は、大学入学時は「2級」しか資格を持ち合わせていませんでした。一応「秋田大学」剣道部に在籍し剣道場へ通ってはみたものの、小学校でも通用しなかった私の剣道が大学で通用するわけがなく、まさに不登校児童みたいに練習時間が近くなれば腹が痛くなる毎日で、最後はとうとう退部のやむなきに至りました。
 
 そして、昭和40年前半に、地元鹿角の中学校に奉職、剣道部の顧問を引き受けました。生徒からは「先生随分下手くそだね」としっかり馬鹿にされながらも、毎日防具をまとって体育館で生徒とたたき合う日々を続けました。

 ただ、生徒よりもまじめに部活に通ったのが実ったのか「先生少し強くなったよ」と子供たちにほめられる中、一歩一歩段位への挑戦を歩み始めました。 ここで、小さい頃からの夢であった5段を取得した私は、すっかり満足したものです。昭和48年、齢30になっていました。
3、7段の昇段試験  24戦:1勝23敗 <勝率4%> 落ちた回数はどうでも良い「とにかく受かって良かった!」
 普通の剣道家は六段をとると早速次の日から七段に向かって猛練習にはいるのですが、私の場合あまりに六段挑戦にかける気持ちが強すぎたためか重度の「燃え尽き症候群」に陥ってしまいました。

  そして、修業期間があけ七段の受験資格を得た43歳の秋、またまた性懲りもなく受験を開始しました。しかし、六段挑戦時あれだけ自分の全てを捨てて練習に励んでもなかなか合格できなかったのに、何もしないで合格するわけがなく、不合格の山をたくさん築き続けることになりました。

 やがて、まだまだ無理の利く花の40代が過ぎ去り、しだいに無理の利かない体へと変化を始めた50代中盤にさしかかった頃、「何回受けても無理なようだから、区切りの良いところで受験をうち切ろう」という心の中の悪魔のささやきが次第に大きくなるのを感じ始めていました。

 そんな悶々とした中で稽古を積んでいたある日突然!、小学生相手ながら、竹刀が止まって見えたのです。(剣道用語では「起こり」が見えたといいます。)これを「奇跡」とか「悟り」とか言うのでしょうね。その神からのありがたい贈り物を生かすべく次の稽古を行いました。

1、子供達と稽古をする時、相手の一振り一振りの起こりに注目し、相手が繰り出した「起こり」が100%見えるよう集中力の反復練習をしました。

2、目で捉えた「起こり」を確実に自分の有効打突にするためには、それに対応する剣の早さと正確さが必要になります。

  そのため、一日1000本を超す素振りを行いました。ただ、一気に1000本を振ってしまえば筋肉や健に傷害が生じ、竹刀を握れなくなる可能性があるので、朝100本・昼100本・寝る前100本と、一日300本から出発。その数を少しずつ増やし一ヶ月ほどかけて1000本を振る体を作り、そして継続していきました。 その成果は確実に剣道に現れ、先輩たちと稽古をしても自分なりに納得のいく剣道ができるようになりました。

 そして、満を持したように出かけていった平成10年11月25日、日本武道館における審査会に於いて、
・一人目 相手がメンにきた起こりをつかんでの「出ゴテ」「出頭メン」、同様にコテにきた起こりをつかんでの「コテメン」がきっちり決まりました。
・二人目 一人目同様の「出ゴテ」「出頭メン」を決めることが出来ました。
 
 審査終了後、今までの審査会と大きく異なり、「自分の出した技の全てが有効打突になった」ことから、もし今回失敗しても次回からもこの剣道で受験しようと心に決め、さわやかな気持ちで審査結果を待ちました。
 
 そして、自分の受験番号「525C」を何回も念仏みたいに繰り返しながら、担当学生が張り出した模造紙を見たら、数少ない合格者の中に「525C」がしっかりと書かれてあったのです。ほとんどあきらめていた中での突然の吉報であったので、どっとうれし涙があふれ、周りを気にすることなく目頭を押さえてしまいました。

  改めて今、じっくり考えてみると、この大きな快挙は、

1、小学校の時に辛抱強く基本を擦り込んでくれた私の父親を含めた鹿角剣道連盟の先生たち

2、繰り返し繰り返し基本の大切さをご指導いただいた秋田大学の範士八段 本田重遠先生

3、毎日のように私の稽古相手になってくれた勤務校の剣道部員、および、私の道場(脩道館)の子供たち

4、稽古をいただいた沢山の先生や剣道連盟の方々

5、最後に、一番大切な魂入れをしていただいた範士八段 内山真先生

のおかげと深く感謝しております。なお、今後とも体が続く限り、剣道を愛する子どもたちに、大きな夢を与え続けたいものと考えています。

  
  
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 そこで満足していればいいものを、何でも欲しがる困った性格の私は、日に日に六段が欲しくなってきました。そして、ろくに稽古もせずに、六段の審査に臨みました。

 しかし、六・七段の審査になると、希望者は京都・東京等、指定する試験場に集められそこでの全日本剣道連盟が主催する中央審査になります。そして、合格率は、ほぼ10%という狭き門となり、例年、全国から集まった受験者1,000余のうち、ほぼ90%が防具を背負って試験会場を後にします。そして、100人に満たないごく一部の合格者だけが日本剣道形と学科試験を受験することが出来るのです。
 私も何度か不合格を経験していく内に「今の実力では絶対に合格しない!」という厳しい現実を自覚せざるを得ませんでした。そこで、その当時六段の審査を担当し、秋田市で雄信館内山道場を経営しておられた 範士八段 内山 真先生のご自宅を訪れてご指導をお願いし、秋田市への通い稽古が始まりました。私の住んでいる鹿角市〜秋田市間は距離にして120Km強あり、時間にしてほぼ3時間(往復6〜7時間)かかります。そのため、もっぱら土曜日が通い稽古日に割り当てられました。

 最初の頃は道場の小学生にも叩かれる始末ですっかり落ち込む毎日でしたが、二年目を迎える頃には一緒に道場に通ってきている若い人たちともともまともな稽古が出来る程に形が出来上がりました。

 そのかいがあってか、北海道で行われた審査会に於いて、ようやく六段の取得にこぎ着けました。何と七回目の挑戦の末の栄誉でした。今まで順風満帆に生きてきた私に取って、この不合格の連続は人生最大の試練でした。そのこともありこの合格の瞬間は、うれし涙で視界を失ったほどでした。昭和55年、齢37歳の夏、私にとっては大きな快挙でした。

2、6段の昇段試験   7戦:1勝6敗 <勝率14%> 「それまでの私の人生において最大の試練を味わう」
1、初段から5段までの昇段試験  5戦:5勝 <勝率100%> 私にしては、まさに「順風満帆?」
私は、子供の頃から学年ワーストを競う程「運動神経」が鈍く、運動と名のつくもの全てに関して消極的でした。しかし、なぜか剣道七段取得の泥沼にはまってしまい、やっとその深みから脱出することができました。

「運動音痴」剣士の剣道七段取得への奮戦記