作者 馬淵南渓
      

馬淵里タ・南渓

鹿角市毛馬内。貫右衛門は里夕と号し、俳諧をよくし、文化文政のころは、鹿角第一の俳人といわれ、文人墨客あとを絶たず、それらの詩歌、書画の書画帳は有名であった。鎌田蕗谷はその門人である。また、庭園造りを好み多くの奇石を集め松樹を植えて松林亭と名付けた。のち本田医院となり、毛馬内名園の一つに数えられている。
里夕の孫が乙次郎。父貞助が早く死し兄賢太もまた天死したので、若くして家を継いだ。天保六年の生まれで、南渓、濶庵(〔升〕に拠る)と号した。幼時から泉沢修斎について句読(くとう)をうけ、長じて経史を学び、あるいは長沼流の兵学を研究し、また桜井忠太夫に従って荻野流の砲術を勉強し、諸芸に通じたので有名になった。南部藩主南部利剛の鹿角郡内巡回に際し、選ばれて兵要録を講じ、あるいは鉄砲を射的して褒賞をうけた。また絵画を修斎に学びさらに月嶺に師事した。絵画は主に蔵の中で描いたが、ある夜家人が部屋をあけて仰天した。幽霊の絵が掲げられていたからである。これがもと仁曳寺に宝蔵されてお盆に本堂にかかげられた地獄、極楽の掛物の一部でないかといわれている◇十和田町の先輩・昭和47年

参考書籍  秋田人名大辞典 秋田魁新聞社より