作者 多田等観
      

多田等観(明治23年7月1日〜昭和42年2月18日)


チベット研究家。土崎港中央三丁目七-二(旧旭町琴平)真宗西船寺義観の三男。秋田中卒後、本山の西本願寺大谷光瑞に学ぶ。明治四十三年、英国の侵略でインドに亡命中のダライ・ラマ十三世は、救いを日本に求めて使者を送ってきた。政府は大谷に依嘱した。この時、大谷方で世話役に当たったのが多田である。
彼は日本語を教え、チベット語を習った。四十五年一月、大谷の命で使者に同行してチベットに渡った。英国の支配するインド政府の監視の網をくぐって、ようやく大正二年九旦二十日、チベットの首都ラサに着く。ここで仏教を研究するためセラ学寺に入学、大正十二年三月帰国した。初め因明部、律部、倶舎部と顕教の奥深くはいり、次に九年七月から密教に進んだ。貨幣改革とラサ版大蔵経の編さん事業にもたずさわり、帰国する時二万四千二百七十九部の経巻や図書を持ってきた。東大文学部嘱託になって、これらの文献整理に当たり、途中で東北大講師にもなった。昭和九年『チベット大蔵経総目録』、二十八年『西蔵撰述仏典目録』は、その整理の結果で、三十年五月学士院賞を受けた。
東北大講師は十七年三月で退き、四月から二十五年三月まで東大、慶大講師。戦時中は花巻在湯口に疎開した。近くの太田村には高村光太郎がいた。二十五年カリフォルニア州大に招かれ二十八年帰国。三十一年ロックフェラー財団援助でできた東洋文庫チベット学研究センター主任研究員。

参考書籍  秋田人名大辞典 秋田魁新聞社より