作者 館忠資
      

館忠資(たち。安政3年12月8日〜大正12年12月21日)


大館市。歌人、嘉仁波廼園と号した。天籟の孫。父は豹助。大館で平塚春江、泉家久、石垣柯山に漢学、江幡晩香、佐佐木弘綱に歌を習った。忠資はまた黒沢宗明、川田甕江にも漢学を学んだ。忠資が門弟時代、師の命により幼少の佐佐木信綱の岩供をして歌の旅をした。その紀行文の草稿は残っている。忠資の追悼歌集の申に信綱の追悼歌がある。
幼なくてともなはれゆきし六浦のきみのすがたもおもかげに見ゆ
その追悼歌集に資次(忠資嗣子)が亡き父についてと次のように書いてある。
「亡き父が一生はほとんど歌道に捧げしと云ひて然るべし。父の歌道に入りしはまだあげまきの頃、江堵晩香翁につきしを始めとし、西三条季知卿、横山由清翁の提漸を受け、佐佐木弘綱に学びて大成せるものの如し、歌稿三十万余草に達す。以てそのいかんに精じんせるかを知るべし、交友天下に洽く、海上、小出、黒田、原の諸大人と贈答せる歌また少なからず、然り而して、父が作歌の内容をぬき、息軒、鶴染、甕江、諸儒に師事せる結果、世の多くの歌人と其の選を異にし、頗る哲学者めきたる風あるは勿論なり」
忠資が青年時代に紀貫之の誤りを指摘して世人を驚かしたとの記録もある。著書は『御代のめぐみ』『相生日記』など。明治三十四年、半年ばかり町長の要職についたが、その後和歌の道に生涯をささげた。
嗣子の資次もまた父忠資の影響を受けて和歌に書に優れた才能を有し、城南、門外漢等と号し、新聞などにも文筆を寄せた。しかし政界に入り、町会議員、助役などを務め、四十八歳で病死した。玉林寺。現在館家は五男充(新宿区上落合三-二二-一八)が継統している。
大館中-二局-東大工学部冶金料を卒業、一時秋田鉱専の講師を務めたが、その後東大の研究室に帰り、昭和四十二年工学博士、四十四年東大工学部冶金料教授になった

参考書籍  秋田人名大辞典 秋田魁新聞社より