作者 庄司吟風
      

庄司吟風(ぎんぷう。天保5年3月11日〜明治38年2月28日)


俳人。北秋田郡阿仁前田字八幡森(森吉町)の人。幼名為吉、のち喜久、為之助。弄月園。諾国を歴訪し、中央にも名を残した。<虫二房>六世に補せられたが、地方のゆえに受けず、自宅にて俳書を出版、著書も多い。七十二歳没。
その句は「安政四年に起こり明治三十八年に終わっているがその前後五十年、順次季節に分類、自ら丹念に浄書したもの。句数約三万句、一字一画整然、あたかも印本と異ならず、全く生涯を俳信仰に傾注せられた」と斎藤蕗葉は述べる。庄司家か。らは、文人墨客が出ている。ぎんぷうの祖父ぶんちは絵画をよくした。俳号を馬得と称し文化年間藩内に砦ける俳人として有名であった。平福百穂の父の穂庵は、文池時代に、庄司家に遊び、ぶんちと同音のゆえをもって、これをはばかり、穂庵と改号したとされる。唯風はこの文蝿の孫に生まれたが祖父の血を受けてか、幼にして俳句を好み、ぶんちのひざに抱かれて俳句を学び、俳号を馬山と称し、十三歳で俳人に伍して多くの吟を発表、人その俳想に舌を巻いたという。嘉永元年三月、年十五で久保田に出て保戸野中町小貫宅に寄り、中川市右衛門の塾に入り、次いで馬術信直流を林慶八に、発句を秋山御風に学び、さらに十月森田主鈴の教えを受けた。穂庵も当時同じく森田主鈴に学び、ぎんぷうとの交友浅からず、後年庄司家に寄寓したのは全くこの関係による。三年無辺流の槍を須田九左俺門に習った。帰郷したのは嘉永六年二十歳だった。青年時代はちょうど幕末に当たり、外艦渡来のため、国内騒乱のきざしがあり、海岸防備に各藩共に繁忙をきわめたが、兄兵蔵(香渓)が海岸防備のため北浦に移住を命じられたのに従い、安政三年北浦五人組頭となっている。また戊辰戦争が起こると、兵蔵と共に南部領境・砂子沢方面に農兵を引率し、阿仁警備に出陣、次いで箭田野民部の小荷駄方として、矢立に転戦、十月二十一日帰宅した。
壮年・晩年は村をはじめ地方団体のために力を尽くすことが多かったが、壮年のころは連句に興趣をそそぎ、連吟、巻を重ねること数百、弄月園俳諾集を印刻して俳友に分かち、続いて二、三、四、五編が出版されている。著作は多いが、皆句集である。その主なるものをあげれば『ぎんぷう家集・乾』(嘉永6)『同・坤』(安政5)『俳諾附録・音信類題集』(万延元〜明治5、四冊)『弄月園俳諾集』(明治12,14,16,24)『文音発句集・七巻』『秋田発句集・一巻』(嘉永4と安政元)『一掬集・一巻』『近世俳諾録・一巻』『古今俳諾・手鏡発句集・四巻』『御風発句集・二巻』^明治10)『弄月園俳諾附合集・五編』『吟歩集・四編』(同26?30)『夜寒百韻・一巻』(同36一などだ。十四歳の春から一日も日記の記入を怠ったことはないといわれ、一々その日のできごと感想を入念に記入した。瞳風と交わった人々は、県内はもちろん、全国的にわたった。主な人々をあげれば、西園寺不読、津軽承昭、前田利嗣、西郷従道、久我建通、醍醐忠順、渡辺昇、東久世通禧、鍋島直大、品川弥二郎、森山鳳羽(貴族院議員)らである。
没後、門人たちによって古戦場であった森吉町の陣馬岱の地に句碑が建てられ「鳴きやめば皆水となる蛙かな」の名句が刻まれた。句集『ぎんぷう遺響』が俳友森山鳳羽の選、酉園寺公の題をもって出版された。明治十四年三都旅行、二十二年関西、二十九年東北と関西と旅を続けてもいる。

参考書籍  秋田人名大辞典 秋田魁新聞社より