作者 内藤湖南
      

内藤湖南(慶応2年7月18日-昭和9年6月26日)

東洋学。鹿角市毛馬内。十湾(調一)の二男で本名虎次郎。祖父が天爵(仙蔵)で南部氏世子侍講。五歳から手習いをはじめ、十三歳で日本外史を読み、漢詩をつくった。二十歳で秋田師範卒。綴子小一鷹巣町)訓導を二年務めて上京、関藤成緒の紹介で大内青轡の「明教新誌」や三宅雪嶺らの「日本人」に執筆、文名をはせた。明治二十七年、大阪朝日新聞社入社、中国満鮮を視察するかたわら勉学を積み、四十年京大文科大学史学科講師、四十二年教授。翌年文学博士となって、東洋学を二十年間担当して京大の"学宝"といわれた。著書には円近世文学史論』『諸葛武候』『日本文化史研究』『支那絵画山,などがある。昭和六年一月御講書始めに、唐の杜祐『通典』を御進講。東洋学では東の白鳥庫吉(東大)、西の内藤湖南(京大)といわれた。筑摩書房から昭和四十四年以降全集が刊行された。書家としても一家をなした。墓は京都法然院。文昭院静処湖南居土。没地は京都相楽郡瓶原恭仁山荘。勲二等瑞宝章。長男乾吉、二男耕次郎、三男戊申はいずれも大学教師になった◇三田村泰助『内藤湖南』中公新書・昭和47。「書芸」湖南追悼号・昭和9。千葉三郎『内藤湖南とその時代』国書刊行会・昭和61年12月。『内藤湖南、ポリティックスとシノロジー』平凡社・平成元。

参考書籍  秋田人名大辞典 秋田魁新聞社より