作者 内藤十湾
      

内藤十湾(天保3年3月-明治41年3月22日)

漢学。鹿角市毛馬内。称調一。字子祥、名貞善。仙蔵(天爵)の長男。父は江戸に上るごとに朝川善庵に儒学をただした。十湾は交からその儒学を学び、その後泉沢修斎の門に入り、学大いに進んだ。妻は修斎の長女容子である。また藩士の川上東巌について詩文を修め、南部藩儒江暗梧楼について学び、さらに長沼流の兵法を沢出善平に受けた。戊辰戦争には熊谷助右衛門らと共に従軍し、門出陣日記』二巻を著した。この間家の不幸が続き、妻や長男文蔵の死に遭う。傷心にむち打ち、塾を開いて子弟の教育に当たりながら、湖南の養育に全力を注いだ。たまたま、尾去沢鉱山所長の要望により、秘書として湖南を伴い同地に赴いた。五十歳以後になってから生活もやや安定し、湖南を師範に入れたり、館に住宅を建てたりした。門に掲げた「蒼龍窟」の額は吉田晩稼の書で、十湾自ら彫ったものである。晩年は読書の傍ら塾生の教育と郷土資料の収集に当たり、筋向かいの奈良正太郎所有の茶室「老梅庵」の空いている時は塾として使用し「育焉亭」(いくえんてい)と名づけた。また旧家を訪ねて系譜などを調べたり、神社仏閣に参詣したついでに縁起や什宝を鑑賞した。これらの資料に検討を加え、七十歳になってから『鹿角志』の編集にとりかかった。この後数年の間全力を注いでまとめたものを、湖南が校正を加え、十湾の序、湖南の後序は共に名文として後世に残された。完成したのは、十湾七十五歳の時であり、明治四十年三月出版された。この『鹿角志』は伊藤為憲の『鹿角縁起』に次ぐ鹿角郷土誌の名著である。内藤家は、伊藤、泉沢両家の学統を継ぎ、十湾の祖父官蔵、父天爵その息湖南に至り、京都学派の大山脈を形成した

参考書籍  秋田人名大辞典 秋田魁新聞社より