狩野良知(文政12年1月〜明治39年12月14日)
幕末から明治にかけて大館市に若びただしい文人が出た。この一群を<桂城文人>と名づけている。中央の勤王派と関係のあった中田錦江、僧無等は頼三樹三郎や星巌と結び、江堵一族は南部藩儒になる。また石垣河山や泉家久、そして長井金風の系列もある。狩野一族からは良知、弟の旭峰、良知の二男に二局校長の亨吉(こうきち)がいた。大館人物地図である。
狩野氏の祖は最上義光の臣で、最上改易後に大館城代の佐竹西家に仕えた。良知は文政十二年(一八二九)正月生まれ。幼名国松、のち深蔵。字は君達。号が羽北・広居。父の与十郎良安は号間斎、致仕して良夢。母水子は山田忠四郎長女で女大学といわれ、歌集『のちのかたみ』を残した。
良知は七歳から前小屋上総、中島仲、中田錦江、根本格斎に学び、藩校から江戸の陽明学者佐藤一斎塾、そして昌平欝(こう)にもはいった。藩のエリートである。文だけでなく、武にも励んだ。洋式兵術を習うため久保田(秋田市)の砲術所に通ったこともある。安政元年、米英露との和親条約が結ばれると、開国論者の良知は『三策』を執筆、のち吉田松陰の松下村塾から出版した。また「北辺事宜」で北方経営を論じ、大館出身の塩谷宕陰と箱館奉行に陳情した。
|