狩野亨吉(こうきち。慶応元年7月28日〜昭和17年12月23日)
大館市。良知の二男で文学博士、理学博士。明治七年一家と共に東京移住。番町小から十二年第一番中(府立一中)、三歳下に漱石がいた。東大卒業後、金沢の四高、熊本の五高の教師を経て明治三十一年、三十三歳で二局校長。次いで三十九年に京大文科大学(文学部)の初代学長となる。京大時代は県出身の内藤湖南はじめ、多くの新進有望学者を招いて文学部発展の基礎を築いた。夏目漱石とも親交があり、漱石の代表作『吾輩は猫である』の飼い主、珍野苦沙弥(くしゃみ)先生のモデルともいわれる。また漱石『京に着ける夕』には実名で出る。
蔵書家としても知られ、不世出の天才思想家といわれながら、忘れられた存在にあった安藤昌益の主著『自然真営道』百三十巻を古書の間から発見し、その学術伝記を紹介した。京大退官後は、書画鑑定の仕事をしていたが、独身のまま八十歳で死去。その蔵書は、現在も「狩野文庫」として東北大の図書館に三万冊が残っている。日記、手紙、手帖など十二箱は東大教養学部蔵
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