作者 石川理紀之助
      

石川理紀之助(弘化2年2月25日〜大正4年9月8目)


昭和町。名貞直。県種苗交換会の前身である種子交換会を、矢島町出身の佐藤九十郎の発案で、明治十一年十一月二十九日創設した人。秋田市金足小泉の奈良周喜治の三男。二十一歳で昭和町豊川山田の石川家へ養子となる。明治五年には県庁に馬調税係として出仕、同十五年まで勧業行政の中心となって活躍。明治十一年十一月九日、稲作指導に当たっていた奈良県人中村直三が帰郷した。奈良県から招かれ、秋田市八橋の農事試験場で石川理紀之助らに協力、稲の比較研究をしていたのである。明治初期、県は全国から老農(有識農民)を招いたが、中村はその代表格。当時、県内で栽培していた稲は約三百種。伊勢参りの農民が、旅の途中の田から密かに持ち帰った品種も多かった。石川の業績を支えた陰の人物たちになる。しかし、おりからの米価下落、小作人と日雇い労務者の激増で自作農が次第に減っていくのをみて「農家経済を土台から立て直す」と決意、辞表を提出した。明治十五年に退職し帰郷。これからが石川の正念場だった。強固な意志とすぐれた計画性で農村復興に立ち上がった。「寝ていて人を起こすことなかれ」の訓言もこのころのものだ。
三十五年、同志と共に宮崎県に行き六カ月にわたり農家経済の実地指導。六十六歳で再び県にはいり産米検査部長。六十八歳で仙北郡西仙北町強首九升田の救済指導を務めたのが最後の仕事だった。著作は『秋田勧業偉人伝』など八百七十余冊。秋田の蓮阿門下の歌人でもある。七十一歳没◇石川老農事蹟会『天下之老農・石川理紀之助』大正5年9月6日。細谷則理『石川翁教訓百首』昭和8。川上富三石川理紀之助日記『克己』平成元。「石川理紀之助人と生涯」平成7

参考書籍  秋田人名大辞典 秋田魁新聞社より