作者 石井漠
      

石井漠(ばく。明治21年12月25日〜昭和37年1月7日)


山本町長面生まれ。「舞踊詩人・石井漠は実力においてアンナ・パブロバ、ニジンスキー、ルスサン・デニスと同じ地位にある巨人だ」(ホールトン女史)、「舞踊は漠の総(すべ)てだ。漠の全部は舞踊だ」(小山内薫)。本名忠純。最大級の賛辞に囲まれた漠の生涯は波乱に満ちたものだった。ストライキのため旧制秋田中を三年で中退、作曲家を志して上京した漠は明治四十四年、帝国劇場歌劇部第一期研究生となり、石井林郎の名で大正三年に卒業したが、特に目をかけてくれたイタリア人ローシーと大げんかして卒業一年足らずで帝劇を去った。
翌四年、「東京オペラ座」を結成、爆発的人気を呼んだ。秋田中学同窓の斎藤佳三を始め、山田耕筰、小山内薫の助言もあった。谷崎潤一郎、佐藤春夫らも彼の周辺に集まった。五年の「日記の一頁」は日本人最初の振り付け作品。八年、過労と酒のため肺浸潤を患い入院、翌年九月末には長期公演中の大阪で幽門狭窄症で倒れた。危機を脱した時、二回の手術を担当した鳥潟隆三博士は「あなたの命を救ったのは医学ではなく気力だ」と驚いた。大正十一年から十四年まで、漠は欧米自作舞踊公演の旅を続けた。べルリン、プラーグ、パリ、ニューヨーク……至るところで漠は天才と絶賛された。帰国後武蔵境に、のち自由ケ丘に研究所を開設し、多くの俊秀を育てた。代表作に「山を登る」「人間釈迦」など。日本舞踊の金字塔であり、人間苦悩の象徴と評される「人間釈迦」は昭和二十八年の初公演以来、二百数十回上演された。二十九年の芸術祭で文部大臣賞受賞、三十年紫綬褒章、三十七年の死去直後に勲四等瑞宝章を受章。全日本芸術舞踊協会初代会長。墓は世田谷区玉川奥沢町浄真寺。著書『おどるばか』(昭和30)。妹栄子は梅ケ丘舞踊研究所を主宰、「華麗なる円舞曲」「長靴をはいた猫」の代表作があったが、昭和十一年八月十一目二十。四歳没。作曲の石井歓、真木兄弟は漠の子

参考書籍  秋田人名大辞典 秋田魁新聞社より