作者 江堵通理
      

江堵通理(嘉永2年2月2日〜大正10年1月31日)


漢学や詩歌、俳諾の血筋を引く文人家系の出で、とくに和歌をよくし教育家、医師としても知られた。祖父は大館佐竹家に仕えた国学の掃部、父が詩人の通寛(晩香)。大館市生まれ。幼名・才介、字(あざな)黄中、甘谷、樗の屋、樗堂の号。幼時祖父や父の指導と影響で漢籍や史書に親しみ、二十歳で明徳館入学、佐藤達元に師事して医学を修める。三年後大館に帰り開業。患者は門前市をなすほどだったというが、明治五年の学校令公布とともに新時代の教育を重視して教師となり北秋田、山本地方の小学校で教べんをとる。文久年間に秋田にきた鈴木重胤に師事して本格的に歌道を志し、重胤死後上京し佐々木弘綱の教えを受ける。久米幹文、福羽美静、伊東祐命、諾岡正胤といった歌人とも交わり帰郷後は教師のかたわら国語と和歌を中心に広く後進を指導、その門下は晩年まで数百人に達したといわれる。教壇を退いたあと大正初年秋田市に出て再び医院を開業、その医療は南秋田、河辺郡にも及ぶ。この間、秋田市近辺の歌会のほか、毎月大館・釈迦内の歌会に足を運んで歌の指導に当たった。博覧強記、とくに万葉、古今の古典歌に通じ、その懇切な教え方には定評があった。
常に衣服はボロをまとい、酒好きで収入のほとんどを知友や後輩との酒代にあてたほどで、貧窮を苦にしなかったというから、よほど無欲な性だったろう。晩年は門下有志のはからいで秋田市保戸野金砂町に秋城吟社(八束穂会の前身)を創設して歌学を教授。七十三歳で病没。法名・自證院樗堂良吟居士、秋田市旭北寺町の宝性寺。著書に『和歌詞之宝』『八代集佳調』『述懐百詠』などがある◇旭嶺山方泰明(泰治)『江幡通理先生追悼集』(昭和6年8月)。略伝のほか、日景忠太、諸井正明、深味貞治、早坂節子、稲見春之ら門下の追悼歌、早坂祐吉の追悼詩、通理の歌三首を収録。

参考書籍  秋田人名大辞典 秋田魁新聞社より