作者 安藤和風
      

安藤和風(わふう。慶応2年1月12日〜昭和11年12月26日)


新聞人、俳人として知られるが若き日は漢学、政治、経済、ローマ字論者、さらには古典、歴史、文学、美術と、新生明治、自由の大正期を生きた人間らしく、豊かな理想主義に生きた。秋田市七軒町(のち牛島橋通町)の藩士和亭の長男。県立太平学校に学んだほか、私塾にも通った。十六歳の明治十五年七月保守派の秋田中正党の秋田日日新聞に入社、十一月に改進党系の秋田日報に転社。そのころ政治青年として活躍、秋田青年会を組織する一方、外山正一のローマ字会に入会、新思想の青年のリーダー格だった。
十七年幼名国之助を和風と改め、本名ハルカゼとよむが、通称や俳号としてはワフウと音読みにした。別号城南隠士、太平山人、時雨庵、大蕗軒(おおふきのや)、鐘礼庵、布々木園、松陰ノ舎など。十九年四月、大阪の「新体詩林」六号に、詩・自由の歌を発表、自由民権の歌として『明治文化全集』(昭和二)五巻に収録された。二十二年高橋健三の私立東京商業学校第一期生で入学。
卒後、御法川直三郎商店大阪支店、秋田県庁、秋田市役所、四十八銀行などを経て、三十一年秋田魁新報に入社、翌年市議。三十五年魁主筆、昭和三年社長。俳人としても名があり、県内に十二の句碑が建ち、『正・続俳家逸語』『俳諾奇書珍書』の研究物や、『旅一筋』『仇花』の句集や歌集『裸』さらに『秋田勤王史談』『秋田の土と人』などの郷土物の著作も多く、郷土研究の黄金期を築いた。膨大な蔵書は県立図書館の時雨庵文庫として寄贈されている。
昭和四十一年には電通の企画による「自由の群像」(東京千鳥ケ渕公園)に記名され、新聞人として最高の栄誉を飾った。清明院松陰舎順誉時雨和風居士。墓善長寺◇『新聞人・安藤和風』昭和42年11月1日・秋田魁新報社

参考書籍  秋田人名大辞典 秋田魁新聞社より