浅井小魚氏 ストーンサークルをよむ


 地に潰えし民族の秋の行へかな

磐境や星を祭しつぶら石

にほやかにかめを掘り上げし秋日かな

石徳の王都のあとをしぐれつつ

つぶら石黙々として霜気あり

浅井末吉(明治8年 大湯に生れる) 
俳号を小魚、多くの俳人と論壇を交える。生業の傍ら、鹿角の遺跡調査や、郷土資料の収集にあたる。




   さくのそと せみしぐれ タミ

 
 大湯ストーンサークル 発見から現在まで
昭和6年4月  耕地整理作業中に大湯環状列石発見される (管理センターパンフ)
   6月26日  本年4月中当町耕地整理地より偶然発掘せられし土器1個を得しを端緒として、発掘数個を得しところあり。
 右場所よりヤヤ西方畑中にストンサークルと覚しきもの暴掘に遇い石柱散乱地底掘り下げを廻り見て、呆然たるものあり。・・・大略書付しものにして是以外、是非御調査を仰度もの数々あり。
(浅井氏・先住民遺跡調査申請書)
   7月9日  県より調査員訪れる
 …発掘のアト埋められ畑となりおり、またストンサークル様の暴掘のアトは石柱など取除かれ
わずか小石を残せるのみ。穴は以前見し時より没められており径1丈位に見ゆるなり。武藤氏も只呆然として彳立するのみ。そこらの類似地点さがしたけれど更にてがかりもなく、以前堰中に石柱倒れしままに見ゆる2・3ヶ所ありしも是又抜去られ跡だになし(浅井氏・遺跡巡礼日記)
昭和7年12月  野中堂において水路の中に石群が沢山あることに気がついたことからはじまるのであります。浅井氏は前年からストンサークルを探していましたので大きい問題として取り上げました(大湯の歴史 遺跡の発見)

 今月初旬であった。…自分は懇地監督に案内されて野中堂新道の左側畑地盤よりわずかに頭数を現している4・5個の石を掘出して貰ったのであった。然るにこの石廓のあらはれは大変面白く、寉翼形に完全に現はれたのであった。(浅井氏・遺跡巡礼日記)
   12月7日 寉翼を広げてもらう、石2・3ヶ出土せり(遺跡巡礼日記)
   12月11日 冨多氏を誘ふて行き、寉翼を掘り連ねて見る(遺跡巡礼日記)

 昭和7年12月、ストーンサークル確認時に発見された土器、およびそのその土器の中に添えられている諏訪氏のメモ(裏表)。

昭和7年12月12日

石群がストーンサークルになることを認識
 折り悪く小雨降り止まず。雨中点検す、まず驚かされしはストンサークル総がかりにて人夫ら堀上げいしが、己に半分以上に及び大環状を至せり。初の寉翼形と見しは石を深く掘下げ見ると別型となる。誠に石組の乱舞とも云うべきなり。カメ(口部欠け)1ヶ携え来しを冨多氏許に置きたり、大きい1巴をよく現し、これに櫛の歯やうにて模様を付したるなど尤物なり。(遺跡巡礼日記)

 昨日発見せる乱れぐみ(組)は本日発掘せる限りは直径約20間のストンサークルになることを見たり、巾6尺より9尺なり。(諏訪氏メモ)

昭和8年3月3日

地元の人々は大湯郷土研究会を設立して遺跡の保護活動・研究に尽力す。

     5月5日 県史蹟調査員視察 
 
秋田考古会誌3−5「大湯町における遺跡の研究」 
     5月22日 わが国に例なき珍しきもの、大湯式石籬・中通遺跡と名付ける
     10月 中通青年団 ストーンサークルに土塁をまわす

昭和12年5月23日

散逸防止の為、遺跡に碑
 …中通に立てられた碑は発見者浅井小魚氏の筆をもって「先住民中通遺跡」と記し、裏面には「この石標の南北2ヶ所に埋没する環状列石群の発見は昭和7年極月耕地整理にその端を得且此地一帯は諸種遺物の豊富なる包含地あるが故にこの種文化将来の闡明を期し暫く発掘を停止して此の秘蔵を封じ置くなり」と、記載されている…(昭和12年6月1日 鹿角時報)
 現在、この石碑は野中堂からスト館駐車場左に移され、当時の人々の思いを伝える裏の碑文は草薮に入って読むことになりますが、是非とも一読下さい。

昭和17年
7月24日〜8月5日
9月15日〜10月9日 

神代文化研究所 発掘調査 
報告書「十和田湖周辺火山灰地層下の神代遺跡及遺物発掘報告」

野中堂の日時計状石組など出現 
 南区中央部において完全なる石群を発見。これは当時のまま、現存すると推定す。その形状の中立石の頂点は火山灰層の底部に接続す。各石の外輪の形状な四角を構成し繋ぎの長方形石は横臥す中央に1本、四隅に各壱本、立体の内部に何者も在せず。
 大
丸石を繋げば東西南北を指し、中央立石は長さ3尺に近く、立石より放射する丸石間に四方4個、特に長大なるを布置せる、何たる偉観何たる壮観、唯々驚嘆の目をみはり、感激の声を発せざるを得ざりき。
高木氏 中通遺跡発掘日記

昭和21年10月15日

発掘調査 朝日新聞によって全国に広く知られるようになった。
 巨石遺跡
(科学朝日)
 
秋田県の巨石遺跡(民族学研究)
 大湯の巨石遺跡
(旅)
 日本にも巨石遺跡
(週刊朝日) 

昭和25年6月30日

大湯町環状列石 県史跡に仮指定

昭和26年7月26日
     〜8月8日

「いわゆる戦後の学術調査」と口癖のように使われるのこのあたり。

文化財保護委員会発掘調査

 埋蔵文化財発掘調査報告「大湯町環状列石」(文化財保護委員会編)
昭和26年11月26日 大湯町環状列石として 国史跡に指定

昭和27年8月5日
     〜8月15日

第2次文化財保護委員会発掘調査
 14日大湯環状列石の保存など講演会(齋藤・後藤・長谷部・駒井氏)

昭和31年7月19日

彦根城とともに、国の特別史跡に 
 現在、東北では平泉・多賀城、縄文の遺跡では尖石・三内丸山
昭和34年8月 野中堂側に湯遺跡土器収蔵庫
昭和48年  特別史跡大湯環状列石発掘史全編(大湯郷土史研究会を発行
 昭和7年12月に多数の石がストーンサークルになると確認したその日から、東北を襲った大凶作や満州事変・五一五事件・二二六事件、日中戦争、第二次世界大戦など、未曾有の混乱と疲弊が続くの中でも、この遺跡を守り続けた人たちがいました。それは考古学界の名高い権威者でも重鎮でも、優れた研究者でもない、その多くは遺跡のまわりに日々暮らす人たちでした。
 
                         

 これからは、住民のから市教委の主導に移り、発掘・環境整備が行われてきました。

昭和48年

県と市の教育委員会で 緊急分布調査

昭和48年〜51年 県と市の教育委員会で 詳細分布調査

昭和59年〜現在 

市教委による発掘調査(〜現在)。調査後、毎回報告書が出ています。
平成9年8月 思いを寄せる市民によって、ストーンサークル万座の会 設立

平成10年

環境整備はじまる 縄文の景観を復元 植樹

平成11年 万座遺跡の柵を撤去、掘建柱の建物を復元
平成12年8月
万座の会による遺跡ガイド、2ヶ月の試行を経て活動を開始。
平成13年 野中堂の柵を撤去
平成14年 体験学習館・大湯ストーンサークル館 オープン